ことばの共通性 / 独自性
ことばってのはとても面白い。
そう気づいたのは、そう、高校時代センター試験に向けて勉強しているときだったっけか。
そう、それより以前にも、僕はことばへの関心が高かったらしい。母親曰く、ひらがながすべて読めるようになった年齢は ”一歳四か月” だったとのこと。別に、読むのが早いから賢い、とかそういうことではないと思うし、単に興味の対象がことばに向かっているのは、このころからだったんだろうという認識だ。
何が面白いか。
一言で表すのは難しいな。面白いことが多すぎるから。
ということで、最初は ”共通性” というところにフォーカスしてみたい。
センター試験、経験がある人も多いだろう。
中でも英語、これは割とセンター試験の中でも比重が高い。どの大学でも、それ相応の比重の大きさを設定するからね。
高校時代はよく勉強したものだ。単語、熟語、それから慣用表現。
さて、勉強しているとき、ふと思ったものだ。
単語ってものは世の中に腐るほど存在しているけれど、どうやって定義されているのだろう。
雨、Rain。
感じるイメージは一緒だ。そりゃ、同じものを表す単語だから。
どういうところから、単語が生まれたのだろうと考えると、やはりことばがないと、ものを表せないから、ということが思い当たる。
僕たちが見ているものは、具体的に見える、見ることができるのだけれど、その認識はすごく抽象的で、人に伝えるには媒体が必要だ。
脳の問題でクオリアっていうものがあるのだけれど、その問題にすごく似ているね。
共通する、ここではことば、を媒介にして、人はコミュニケーションをとる必要性があるんだ。
次に、ことばの ”独自性” について考えてみたい。
五月雨。豪雨。
感じるイメージが全然違う。
日本は、割と同様の単語のバラエティーが多い。
英語はシンプルで、ズバッと一つ定義している場合が多い。
この違いってどこから生まれてきているのだろう。
国民性か?はたまた、どの時代に、どの場所から人が流れ込んできたか、ということなのか。
ことばの持つ意味は大きい。
先ほど、国民性によって、ことばの成り立ちが違うと書いたが、その逆もあり得るのではないだろうか。
ことばがないと、人は物事を認識できない。それだけ、ことばのもつ力は大きいのだ。
なら、ことばが人間に、国民性の違い、性格の違いを与えてもおかしくはないだろう。
細分化された雨、という表現を持つ日本では、それだけ雨に関する興味が強い。
モンスーン気候だし、四季が存在するというのも、大きなファクターだろうが。
情緒ある、そういう雰囲気を、自国に感じるのも、このあたりが大きいのだろう。
ことばの成り立ち。
それにはさまざまなファクターが存在しているだろう。
たぶん、言語学者はそれに頭を悩ませていることだろう。
だって、そりゃそうだ、ことばは文化なのだから。
先ほど国民性はことばからうまれたのか、それともその逆か、という提示をしたが、そんな簡単なことではない。
少なくとも、両方が関係しあって、ことばというものが変化していった結果、今の言語体系に落ち着いたのだ。
社会情勢だって、ことばに影響を与えるだろう。その逆だってそうだ。
簡単に発することができることば。
日本人なら、だれもが使える、ことば。
でも、その実、ことばっていうのは人間の核心部に迫るものだ。
今後より一層、ことばというものに注目していきたい。