死について考える
もうこれ日記じゃなくなってきたな・・・。
まぁいいや、日付も入っているし、自分が見返すには問題ない。
さて、今回は、死について考えてみようと思う。
小学校5年生の時ウンウン考えた以来、真面目に死について考えるわけだ。
死とは。
死ぬってなんだ。
突然だが、僕の家系は浄土真宗だ。
死という概念についての考え方は、宗教の依るところが大きい。
死の多様性、つまりそれだけ死に対する興味関心は強いことの現れだ。
そりゃそうか、だって人生の終焉だものね。
死。
死、意識の消失。
死、無。
死、おなかがすかなくなる。
死という概念は、どれをとっても特徴的だ。
今継続している意識が途切れるわけだから。
言うならば、寝ているうちの無意識下の状態がえんえん続くわけだ。
だれもかれも、無意識を認識することはできない。
つまり認識という言葉で説明できない事象である。誰も経験できないから。
よく、臨死体験って言葉があるけれど、死に臨むって書くわりには、意識が介在しているから、実際問題、死には臨んでいない。
さて、よい死ってなんだ。
これは完全に個人的意見だ。
よい死。
意識の消失。
睡眠に入るとき、僕は何かしらのことを考えている。
だんだん、意識の揺らぎが無意識に傾き、つじつまが合わなくなってくる。
そうしたら、すぐ寝ちゃうんだ。
たぶん、だけどさ。死ぬ前もこんな感じなんだろう。
雪山で「寝るな!」という、ある種の定型文は、死ぬ前に眠くなることの証明だ。
睡眠の効果は大きい。
睡眠中の快眠度は、たいがいさ、寝る直前の心持ちで決まる気がする。
死、の捉え方。
僕自身は、長い、永い睡眠だと思っている。
ならさ、その眠りにつく直前には、幸せな気分でいたいじゃん。
幸せの定義は人にもよるけれど、僕は家族に囲まれて死にたい。
愛する人に囲まれて死にたい。
死んでもお金はもっていけない。
でも、最後に残る気持ちくらいは、あの世というものが存在するならもっていけるんじゃないかな。
この世の最後に、やさしい幸せを。
僕の、死生観でした。